2012年9月発行 『即席文藝』 より


 テレビをつけて途中からの映画を何となく見る。

 白い手が右と左から招いてくる。ぼんやりとした輪郭だけが見える。暗闇の中でひとりでいる。立っているのか座っているのかわからない。ただひとりでそこにいるということだけわかる。ああ、子供の頃にすごした部屋だ。狭いアパートで両親と妹と暮らした。母が隣の部屋にいて、片付けものをしている。私はふすまのこちら側で寝かされている。
猫の幽霊がいる。大雨が降っている夜にはよく来る。猫は私をじっと見ている。私は何も見えていないふりをする。白い手が揺れている。猫は執念深くこちらを見ている。身動きをすると連れて行かれるので私は動かない。そうしてこわばったままもう一度眠ってしまう。

 そこは湖で、周囲は山に囲まれていた。清涼な空気と水の匂いを感じる。夏の朝。まだ暑くはない。静かで緊張感がある。誰もいないが生き物の気配がある。不意に雨が降り出す。小さな水滴がすぐに大きくなり、視界が埋め尽くされるほどの豪雨になる。何かいわれたような気がして振り向くと、口を大きくあけて叫ぶ私がいる。聞き取れない。もう一度口があく。三語だ。唇を読む。ま、ざ、る。混ざると言っている。ふと指先を見ると、もう形をうしなって雨に溶け出していた。

 窓の外を見るとグラウンドから数人の生徒が駆け戻ってくるところだった。もう本鈴は鳴ったから昼休みは終っている。五限の教師が入ってきて、空いている席を見て顔をしかめる。もうすぐ中間なのに気が抜けてる、と聞こえよがしに言うが、聞くべき生徒は戻っていない。黒板に向き直って、右端のいたずら書きに目を留め今度は日直に注意をする。数人の大きな足音が教室の前から近づいて通り過ぎる。後ろドアが勢いよく引かれ、開いた。三分遅れ。三年の教室は遅刻防止のために二階が宛がわれているが、それにしてもグラウンドから走ったにしては随分はやい。今が一番大事な時期なんだからサッカーはほどほどにね、すみません、の応酬を聞く。背中を刃物で刺されたのではないかと思う。そのくらいここには居たくない。

 とかげがまた来ている。じっと壁面についている。生きている間のどれだけをああして過ごすのか、彼らの時間について詳しく知らないが、もしかすると今とてつもないことに立ち会っているのかもしれない。

 もろく体が崩れて、風に飛ばされている。腕までなくなった。心臓の削れる感触。乾燥し、はがれて私ではなくなっていく皮膚が地面に残る。

 薄く目を開けた。夜が明けかけている。カーテンの隙間から朝焼けが見える。身体をおこして手近の上着を羽織る。足の裏がひやりとする。サンダルをつっかけて鍵を静かに開け、外へ出る。いろいろなものがまだ眠っているが、きちんと生きているとわかる。季節の匂いがする。私はまだそう考えることができる。混ざるよ、とまた声がする。家の前でぼんやり立っていると白く光る猫が横切った。こちらを見てしばらく足を止め、けれど行ってしまう。まだ見える。右側から朝日が差す。混ざりはじめる。あたりを埋め尽くす白い手。目を閉じると、私はいなくなっていた。   


*   *  *

 指針をひとつもっている。青い針。手に取った本を書棚に戻し、そのまま店を出る。静かな店内に靴音。自動ドアを出ると真夏で、それは期待通りの強さでもって私を迎える。緑は濃く虫は盛んに飛ぶ。正しい。
 姉のことを思い出す。携帯電話の番号もメールアドレスも何度かの変更を更新しそびれて今はこちらから連絡できない。もともと疎遠なので困らない。どうせ読まない本をいつも貸せといってきては返さないことだけ腹が立つが、それ以外は本当にただの家族のひとりでしかない。ただし、私と子供のころを一緒に体験した唯一のひとなので、何かを考えるといつもふと引っかかってくる。同じ部屋で眠った記憶。あのひとと私の違い。同じ血の右と左。枝分かれした可能性の先の彼女と私。似ているしぐさ、似ても似つかない言動、好み、信頼を置くもの。共通する互いへの距離のとり方。先と後の権利のちがいの認識。
 横断歩道をわたりながらビルの上のほうを眺めてみる。フェンスに寄りかかりながらタバコを吸う人。何かを今ここに落としておきたくなる。そうして痕を残しておきたくなる。
 あなたに意志なんてないように見えるよ、と姉に言いたい。想像の中ですら姉は何も返さない。あのひとへの期待の薄さと私の執着がいつも比例しない。本来とるべき距離は把握しているのにどうしても目障りに思う。歪みがある。
 信号が赤になる。黒い影が伸びてきて淵に引きずり込む。車道との間に私は落ちる。誰にも気づかれずに体が濁った色に染まる。腕を上に伸ばした姿勢でさらに落下する。重力が働いている。技巧について、自然と共存することについて、知るべきことについて、論理的思考を保つための基礎的な方法論の構築について、世代について、情勢について、個人について、曖昧さについて、現状を打開する手段について、感情について、形について、差異について、分かちがたい今について、結論を求める。誰かにつきつけるように生きるなと言いたい。焦燥感が胸を占める。どこにも終着しない体。それをし続ける私。継続と断絶でしかない形状。
 左手を開くと光るものがある。細く、淡い光を放つ針。縫い針のようだ。右の指でつまみ、反対の人差し指を刺す。痛みはなく針は吸い込まれていく。このまま血管をとおりいずれ心臓を刺すだろうか?
 私の携帯電話が目の前に流れてくる。着信を知らせる振動。もしもし? 明日は帰らないよ。うん、あさってにした。え、無理。だってもう予約しちゃったもん。先に言っといてよ。うん、電車。指定席にしないと混むから。荷物多いし。駅きてくれるの? お母さん? えー、ちかちゃんの運転怖いんだけど。ほぼペーパーじゃん。あたしは免許とらない。結局こっちじゃ乗らないし。お金ないし。あーそうそう学生のときだったら出してもらえたんだよね。ちかちゃんも半分援助してもらったんでしょ。要領いいよね。あたし失敗したかなあ。あ、ごめんちょっとお店入るから電話切るよ。とりあえずあさって帰るから。うん。うん。お母さんたちによろしくね。

 部屋は薄暗い。ベッドに寝転がりながら雨音を聞く。真昼に雨が降る。アスファルトが濡れてその上を人が歩いていくのを思う。跳ね返る汚れた水。古い映画の一幕のように頭の中で組み立てて動かす。遠のく私の気配。私が私から離れていく。乖離する。窓枠に腰掛けてやがてそのままの姿勢で落ちていく。私はそれを見ることもなく知っている。体の向こう側に起こることに理解がたやすく及ぶ。思考や判断を超えて感覚が飛ぶ。ただ横になってすべてひとつになる。

 途切れる。続けることを諦める。物事を明らかにする。試行錯誤する。戻り方を忘れる。正しいと思うことをする。超越する。段階的にのぼっていく。左手で扉を壊す。ガラスが割れる。大声でわめく。知識がある。人を生かす。水にもぐる。沈む。打ち砕かれる。接合する。食卓にならぶ料理。

 自分の箸を使って食事をするのが久しぶりだなあ。子供のころからの、姉と色違いのおはし。お姉ちゃん。赤とピンク。七五三の着物の色と同じ。姉が赤。私がピンク。いつも特に不満はないはずなのに、なんとなく物足りないような気がしていた。野菜の煮物の甘み。これちかちゃんが作ったの? おいしい。料理うまくなったねえ。あたしはそもそも野菜をちゃんと切れない。ご飯が作れれば、なんかだいたい大丈夫だよね。うん、大丈夫な感じがするよ。私はだめなのか。そういう帰結が好き。転換もない。自発的に、消極的にものごとを俯瞰する。落ちたがる。そういう視点を持ちたがる。悪癖ってそういうこと。手土産の、最近はやり始めた店のロールケーキが食後に出る。おかあさん食べたがってたでしょ。あたしも気になってて。

 扉を開くと空洞がある。誰もいない。何もない。白い真四角。部屋ではない。誰かのための余白がそこにある。中央まで行き、しゃがむ。床に頬を寄せる。冷たい。自分の姿がうすく映っている。 

 あ、と声を出す。反響。スイッチが切られる。暗い。何も許容しない。ただ深く沈む。感触。ゆるく首を絞められる。呼吸をやめる。黒い。撮影される気配を感じる。あなたの視線。

 あなた?

 母が持たせた土産のおかげで来た時よりも荷物が増えている。ありがたいけど重たい。あたしは失敗したんだね。

 暗い車窓にうつる顔。すり抜けてその向こうにいく。電車の速度を越える。風が顔にあたる。髪がなびく。光が真横を通る。他人の生活。温度。誰かの日々が体の中を通りすぎる。内臓が焼けるような思い。あせる。不安が満ちる。海が生まれる。欲しいという気持ち。引き寄せあう。磁力。心臓から針が突き出て、胸元の皮膚を裂き外へ逃げていく。それはどこに行くのだろうか? どこへ戻るのだろうか? 青い針。わたしの指針。時計を戻す。奥底に沈めている。水面から伸びる右手。欲しがる手。こと。ことちゃん。またお正月帰っておいでね。ふたりとも何にも言わないけどやっぱり帰ってきて欲しいんだからさ。ね。うん。ねえ、お姉ちゃん。私はすごく簡単で、笑っちゃうよ。驚くほど簡単。下を向くと体の中身が空になって風が吹いているみたいだ。それでいて侵食してくるような、這い上がって全部まっくろに染めてしまいそうな、ひどく強くていやなものがここにあるみたいだ。全力でわたしに止まれと言っているようだ。

 足元が抜けて落ちる。もう疲れた。転換して、地面が天井になって、それでいいんじゃないの。言った声がわあんと反響する。誰にとどくのかって、思う前に知っている、知っているはずのことがみんなわからなくなった、姉と、母と、父と、私と。結局のところ重心とはそこから働いていて、抗いがたくて、背きがたくて、抱きとめられている。
 階段を上る。のぼった先にみなれた景色がある。夜の世界がやすやすと広がる。半分のわたしはそこに待っている。分離して融合して細胞が死んで生き返る。一度ほどけてばらばらになっても私は当たり前にまた立つ。背中から腕が回る。追いついてきた。熱のないかたまりが背に張り付く。やわらかくまといつく腕をなぐさめるように押さえる。じわじわと溶けあっていく。温度が生まれる。同じ生き物になる。混ざる。指差す方向を見る。泣いて、叫び出したいような気持ちなる。夜景とわたしと。すれすれで一瞬浮かんで、着地する。慣れた地面がそこにある。

*   *  *

 歩いて、歩いて、先がない。浜辺。空は重たく灰色で風は容赦なく冷たい。生命などひとかけらも認めないような凍てつく海。砂に足を取られてふらつく。塩の味が口の中に広がり、目も痛む。朝からずっと歩いている。黙々とただひたすらに。誰にもすれ違わないのに大勢の声が常に聞こえている。ごう、と風がうなる。髪がなぶられて視界を失った。焦りが生まれる。向かう先を知らないのにそこに戻らなければと思う。当てどない。
 
 崖を歩いている。今気がついた、たぶんずっと歩いている。ふと見るとテーブルや椅子があって、たくさんの友人たちが食事をしていた。透明で冷たくて硬そうなガラスみたいな料理。喉を通っていく異物の感触がなんとなく伝わって、私はいらないなと思う。誘われたが断って、また歩く。あの電車に乗るんだった。たぶん。

 帰りがけにスーパーに寄っていつもと同じ買い物をする。

 荷物が重くて、
 
 足がなんとなく動きにくい。

 あ、し、が、とか、楽に、とか、
 もしかしたらの、
温度の、先、が、  (青い針が落ちる)

だんだん端から冷えて

 目が、よく、    (白い猫)

         みえなくなったり
 
 わりふられたとおり演じられているはず。

   順当にきれるし、 あっさりしている。

 そんなに暗くないし考えてもいない。つかまらない。

    眠りにくい。 

目でおいかける。 終わらせたがる。

 からだがなくて戻れない。本当のわたしはきっと、もう、粉々で、乾いた別のものになって、風に飛ばされて、どこにもないんだろう。どうしよう。どうしようもない。

 ほんとうのわたしだって。馬鹿馬鹿しい。

*   *  *

 薄暗い美術室の奥に準備室があって、そこは更に暗い。たくさんの画材が並んでいて学校の中でも嘘みたいに別の場所になっている。天井近くまでぎっしり並べてあるので少し目当てのものを探すにも苦労する。はしごに登って上から順に見ていくけれど、面倒になってそのまま休憩する。制服の裾が飛び出た釘に引っかかっているのを適当に引っ張ると糸がほつれた。こういうところが雑で、どうしても丁寧にできない。ほどけるものは仕方ないし、そういう風になる決まりだったんだろうと、妙に、諦めてしまう。壊れたりなくなったりするのもあらかじめ決まっている。だからいつもあまり悲しんだり残念に思ったりはしない。必然的にそう収まることに納得しているし腑に落ちている。この感覚があまり上手に説明できない。理解されない。だから私はひとりでいることが多い。
 はしごの上でぼうっとしながら、家に帰っていい時間が来るのを待っていた。

*   *  *

 はしごの上に座って全部わかったような顔をしている子供がいる。今となっては懐かしい、中学の制服を着て、髪が半端に短くて、おさなくてかわいい。妹だ。あの頃、どうしてか全くそばにいなかったから、私達はお互いがどう時間を過ごしていたのかも知らない。そう。こんなふうだったんだ。知らなかった。覗き見しながらつぶやいて、言葉を自分の耳で聞いて驚いた。知らなかったんだ。そこから急に実感が戻ってきて、自分の体の場所ひとつひとつを感じられるようになる。形がよみがえる。感覚がもどってくる。上滑りしていた感情がそこにあることを思い出せるようになる。両手で頬をはさんで確かめる。私の顔。頬に感じる手の温度。ある。あった。頭の中ではっきりそう考えたとたん、強い力で後ろに引かれて宙に浮いた。反射的に目を閉じていて、次に開けたとき、そこは夜の空だった。上空の、すごく高いところを飛んでいる。光とか、音とか、とにかく人ではないものの速度で景色が過ぎていく。あまりに速くてものをものとして見ることができないけれど、ある瞬間急に知っている何かを見つけた。あそこにいる。夜を走る電車のあかり。もう少し、あと、ほんの少しの力で追いつくことができる。あの子のところに行くことができる。徐々に街がその姿で認識できるようになり、見慣れた高台に下りる。育った街の夜景が見渡せるところ。私たちは。私たち。わたし。   

 あなた。混ざる。
 

 降り立った先にいる。追いついた。

 うで、が、そっと抑えられて泣きそうになる。
 

 泣いてるのかな。そうかも。

 一緒にいたんだけどね。

 考えていることが同じになっていく。

 混ざる。戻っていく。

*   *  *

 テレビを消して、ぼんやりと座っている。映画の気配を引きずって、心地よい浮遊感にひたる。なんだかとてもいい時間を過ごした気がする。
 夕方から夜になる途中の太陽。日が暮れていく。部屋に差し込む西日。終わっていく今日。
 ふと、私はどこかに行っていていたのかもしれないと思う。一度ここからいなくなって、いろいろなところを歩いて、また戻ってきた。そんな気がする。
 体が通りぬけた時間と残っている記憶と理解が不思議とばらばらになっていて今それが組み立て直されたような感覚を、家族のいないリビングのソファーで夕焼けに顔を照らされながら追いかける。ひどく満たされて、胸が詰まる。

*   *  *

 今日はスーパーの特売日で野菜が安くて、いつもよりだいぶお金が浮いた。料理は簡単なものしか作れないけれど出来合いのお惣菜を買うと経済的でないし、食べたあと喉がすごく乾く。買ってきたばかりの野菜の皮を剥いて刻む。すとん、すとん、と包丁の入る感じ。
 姉の煮物の味を思い出す。あの人は少し変わっただろうか。会わない間に。私が少なからず変化していくのだからきっとそうなのだろう。
 姉と話をしたい。もしかしたらはじめてそう思う。ふたりで。長い時間をかけて話をしたい。とても素直に、晴れやかな気持ちで、そうしたいと思う。きっと姉もそうだろうと変に確信を持つ。満ち足りた気持ちで、あとで電話をかけることに決める。


2012年9月に発行した『即席文芸』という合同誌のために書いたものです。